佐藤ひろ美 半生記 第1回:小学生編

 佐藤ひろ美が生まれたのは1970(昭和45)年12月10日。会社員の父と看護師の母との間に、長女として誕生した。この年は3月に日本万国博覧会が大阪で開幕。4月にはビートルズ解散とアポロ13号打ち上げ成功が世間を賑わせていた。
「音楽一家なんてとんでもない。家族親族で、音楽をやっている人なんかいませんでした」と佐藤ひろ美。親戚が集まると、顔つきも体形もひとりだけ違っているので「今でも佐藤家の一族じゃないんじゃないかと言われます」と笑う。そんな彼女が音楽と出会ったのは、近くにオープンしたヤマハ音楽教室だった。
「近所のお友達がみんな通いだして、お母さんが「ひろ美ちゃんも通う?」って」
 当時は大人しい女の子だったひろ美が少しでも元気になれば、という親心だったのだろう。こうして4歳のひろ美は、ヤマハ音楽教室に通うことになる。そこで出会ったのが、エレクトーンだった。
「オルガンやピアノを習う子が多かったけれど、私はエレクトーンが一番面白そうに見えたんです。鍵盤は二段だしボタンはたくさんあるし、足も使うし(笑)」。
 こうしてエレクトーンを習いだしたひろ美は、どんどんエレクトーンにハマっていく。そしてもう一つ、ヤマハ音楽教室ならではのカリキュラムが、彼女をどんどん変えていった。
「ヤマハ音楽教室は、楽器だけじゃなくて歌ったり、体でリズムをとってダンスをしたりもするんです。それが楽しかった。特に大きな声で歌う楽しさを知ったのは、自分を大きく変えましたね。それまでは家でも外でも、大人しい女の子だったんです。大きな声を出すなんて、やったこともなかったし」

 小学校に入学するころには、明るくて元気いっぱいの女の子になっていた佐藤ひろ美。勉強もスポーツも得意で、クラス委員を務めるほどのリーダーシップも発揮していた。
「音楽ももちろん大好きで、友達に頼まれてエレクトーンを弾いたり、アイドルの歌を歌ったり。クラスでも音楽の得意な女の子だったし、友達も先生も、そう思っていました」
 けれどその一方で、家では相変わらず大人しい女の子だったという。
「家では騒いだりしないし、本を読むかエレクトーンを練習しているか。エレクトーンなら、いつまでも弾いていられました。ヘッドフォンをして、黙々と練習するんです。本も小さい頃から大好きでした。小学生の時は、江戸川乱歩とかルパンシリーズとか。『子供ミステリーシリーズ』みたいなのがありますよね。あれを全部読破したり。普通に勉強もしていましたよ。成績もいいし、共働きだった両親にとっては、手のかからない女の子だったと思う」
 実際、ひろ美の両親はエレクトーンを熱心に練習するのは知っていたが、歌が好きだとは思ってもいなかった。そんな中、大きな転機が訪れる。
「小学校6年の時、小学校の代表で独唱大会に出たんです。そしたら地区大会を勝ち抜いて、県大会に出場することになりました。でも、県大会に出場するには泊りがけになるので、両親についてきてもらわなくちゃいけなかったんです。その話をしたときに、「ひろ美ちゃん、歌が上手かったの?」って(笑)。そりゃビックリしますよね。家では本を読むかエレクトーンを弾くかの大人しい子で、親の前で歌ったり大声を出したりなんてしたことがなかったんだから」

 こうして出場した県大会では見事1位を獲得。この時の経験が、その後のひろ美に大きな影響を与えた。
「県大会の大きなステージで歌うことになって、舞台袖まで行った時、体の震えは止まらないし、心臓も信じられないくらいドキドキしていました。それで先生に「私、どうしちゃったんでしょう? 手の震えが全然止まらないんです」と聞いたら、「それが緊張なんだよ」って言われて。実はこれまで38年間生きてきて、この時より緊張したことはないんです」
 緊張が極限に達した時に、自分が歌う順番が来る。ステージの中央に立ったひろ美は、真っ白な光に包まれた。
「スポットライトだったんですよ。その光は今でも覚えています。でも、そのステージはそれしか覚えていなくて、気がついたらステージを降りていました。何を歌ったかも覚えてないの(笑)」
 そのスポットライトを浴びた時、ひろ美の中で扉が開いたのを感じたという。
「それまでは、やはりどこか閉じた部分のある女の子だったと思う。でも、そのスポットライトを浴びた後は自分に自信がついたし、これまで以上にポジティヴに物事を考えたり取り組めるようになりました。そして何より、もう一度ステージに立って、あの光に包まれたいと思うようになったんです」
 そして中学生になったひろ美は、地元の市民劇団に入団することになる。