佐藤ひろ美 半生記 第2回:表現者として目覚めていった頃

 音楽と読書が大好きで、クラスでも人気者だった佐藤ひろ美の小学生時代。そんな彼女が“表現する”ことに目覚めたのが、小学6年生の時に参加した独唱コンクールだった。岩手県大会で1位を獲得したひろ美は、中学進学後は地元釜石市の市民劇団に所属。自らの表現力を磨いていくことになる。
 もちろん音楽から離れたわけではない。海外のポップミュージックに目覚めることで、ひろ美は音楽への興味の幅を大きく広げていく。
「それまで私の周りの音楽といえば学校の音楽と歌謡曲。ちょっと物足りなさを感じていたんです。ちょうどそんなとき、MTVと一緒に洋楽のムーヴメントがやってくるんです。ビデオの中で歌うマイケル・ジャクソンやマドンナ、プリンス、デュランデュラン……。これまで聴いたことがなかったビートとファッションに夢中になっちゃったんです。『カッコいい!』って(笑)」
 洋楽への出会いから、どんどん音楽にハマっていった。しかし、中学時代の音楽はあくまで趣味。むしろ関心は芝居の方に向いていた。「本気で役者を目指していた」と彼女は、そのころを振り返る。市民劇団には高校1年まで在籍していた。しかし、2年進級時に退団してしまう。
「ひとつは、私が通っていた高校が進学校で、高校2年になると周囲が一気に受験一色になってしまったんです。周りがそういう状況の中で、市民劇団を続けていくのが難しくなって、退団することになりました」
 そしてもうひとつが、高校進学と同時にやってきたバンドブーム。高校進学後に軽音楽部に入部したひろ美は、たくさんのバンドに掛け持ちで参加することになる。
「メインはキーボードとコーラス。実は高校生バンドって鍵盤を弾ける人が少ないんです。それで私も、たくさんのバンドをお手伝いすることになりました」

 その頃はヴォーカル担当ではなかった。“ヴォーカルは音楽が好きだけれど、楽器のできない人のパート”という認識があったのだ。
「コピーバンドもあったし、オリジナルもありました。BOOWY、プリンセスプリンセス、ジュンスカイウォーカーズ、ブルーハーツ、レピッシュ、TMネットワーク……いろんなバンドをコピーしましたよ。バンドブームで、どんどんメジャーなバンドが出てきた頃でしたから。私も色々な音楽を聴きました。洋楽、邦楽関係なかったですね。中でも好きだったのはレベッカやバービーボーイズ。特にレベッカは大好きでした」
 オリジナルのバンドでは、メンバーの作ってきた曲にコードをふって、譜面を起こしたりもしたという。
「どうせ譜面に起こしたって、みんな読めないんですけどね。でも、楽しんでやっていました」
 作曲への興味は?という問いに、少し考えて「特になかった」とひとこと。
「小さい頃はエレクトーンで勝手なメロディーを弾いていたけれど、遊びだったんですよ。ホント、エレクトーンが一番楽しいおもちゃだったし。だからバンド活動の中で、“自分で曲を作ろう”と思ったことはなかったですね。クリエイターよりパフォーマーになりたかったから」
 初めてヴォーカルをとったのは高3の時。試しに歌ったらその時のヴォーカリストより上手くて、それからはキーボードではなくヴォーカルでバンドを掛け持ちするようになったという。
「いろんなバンドで、いろんな音楽を演奏しました。でも、あくまで趣味の範囲。コンテストに出ようなんてこともなかったです。ただ私自身は、東京に出て、プロとして芝居か音楽をやりたかった。なので両親に相談したんですけど、そこで大げんかですよ(笑)。田舎の保守的な家庭だったので、女の子は地元の学校を出て、地元で就職して結婚みたいな考え方が一般的だったんです」

 そこで一計を講じた佐藤ひろ美は、地元の短大に進学。保母の資格をとって両親を安心させるや否や、短大でバンドを組んだメンバーたちと上京してしまう。
「メンバーは男性2名と私。でも上京してすぐに、メンバーがひとり脱退してしまうんです。そのあとに東京でメンバーを募集して、結成したのがサティアグラハでした」
 J-POPのメロディーに多国籍風のアレンジを加えたサティアグラハの音楽性は、ひろ美にマッチしていた。こうしてメジャーデビューを目指して、東京での音楽活動が始まった。それは9年に亘る、苦難のバンド時代の始まりでもあった。