年代別コラム 第7回:2006年編

2006年は今までの中でも、本当に忙しい1年でした。2004年の『Angelic Symphony』が成功したおかげで、ブロッコリーさんからは、それ以降もたくさんのお仕事をいただいていたんです。
2006年はTVアニメ『護くんに女神の祝福を!』でも歌わせてもらって、そのCD発売イベントで全国12か所を回りました。ラジオもゲーマーズさんの店内ラジオとBEWEの『ひろらじ』があったし、ファンクラブも本格始動するし、イベントもたくさんありました。本当に忙しい1年間でした。
でもなぜか、PCゲームの仕事は減っていったんですよね。なぜか「佐藤ひろ美はもう美少女ゲームは歌わない」みたいな雰囲気になっちゃって。そんなつもりは全然なかったし、むしろ『Sugar Season』で作曲を経験したり、『創聖のアクエリオン』での声優経験のおかげで歌の表現力が上がったこともあったので、どんどん歌いたかったんです。どうして「美少女ゲームは歌わない」なんて噂になったのか、今でもちょっと不思議に思っているんですよ(笑)。

そんな忙しかった2006年。でも自分にとっては「停滞していた1年」という印象があります。その理由はいくつかあるのですが、一番大きかったのは佐藤ひろ美というアーティストをプロデュースする人がいなかったこと。
デビューの時は虻川治さん、リバーサイドミュージック時代は河辺健宏さんが佐藤ひろ美というシンガーをプロデュースしてくれていました。でもこの頃は、一緒に5年後、10年後を考えてくれるパートナーがいなかったんです。それでも2004年と2005年はチャレンジすることも多くて、勢いもあったので乗りきってこられました。
でも、ふと立ち止まって考えた時に、一つ一つのお仕事をこなしているだけになっていたんです。もちろんお仕事はいつでも全力投球でしたし、現場は楽しい。スタッフも頑張ってくれました。
でも、今目の前のお仕事に精一杯で、私の5年後を一緒に考えられる人は、残念ながらいませんでした。だからお仕事の中に新しいチャレンジがないし、自分が成長している実感もない。これでいいの?って不安になってしまったんです。
それと年齢のこともありました。この年の12月には36歳になるけれど、お仕事では20代を求められる。もちろん楽しいことはあるけれど、いつまでも続けられることじゃないですよね。今の私を見てもらえば分かるように、根っこの部分は年相応のおばちゃんだし(笑)。でも若いアーティストも増えている中で、いつまでもこのままお仕事ができるとは思えない。どうしたらいいのか分からなくなってしまったんですね。
そうなると、根が真面目なので、とことん考えこんじゃうんです。でも結論は簡単には出ないし、不安で眠れなくなる。心も体もボロボロになって、体重は33kgまで減ってしまいました。心療内科に通っていたのもこの頃。うつ病だったんです。顔面まひで撮影の時に上手く笑えないこともありました。

そんな私を支えてくれていたのはファンのみんな。『護くんに女神の祝福を!』のイベントで全国12か所を回った時は、毎週土日がイベントで体力的には本当にキツかった。でも会場でファンのみんなと会えると、本当にリラックスできたし元気になれたんです。
他にもたくさんのイベントがあって、スケジュールが一杯だから本当に大変だったんだけど、ファンのみんなに会うたびに元気をたくさんもらえました。だからこの年は乗りきっていけたんだと思います。本当にありがとう。ファンの皆さんに、心から感謝します。

悩んで、苦しくて、でも応援してくれるみんなからもらった元気で乗り切った2006年。私は結論を出しました。それは「誰もプロデュースしてくれないなら、自分で自分をプロデュースしよう」ということ。いただいたお仕事を、「ありがたいね」っていうだけで、何も考えないでこなしていくのはダメ。それは何もしていないのと一緒なんです。そのお仕事をやることが、今の自分とこれからの自分にとってどういう意味があるのかをちゃんと考えて、時にはお断りすることも自分にとっては大事なこと。一つ一つのお仕事をちゃんと意味のあるものにするには、自分をプロデュースしなければいけないという結論になったんです。このことが、2007年の株式会社S設立と、アーティストの本格プロデュースに繋がっていくんです。
実はYURIAちゃんやyozuca*には前から話していたんだけれど、「私みたいなシンガーは5年くらいで飽きられちゃうから、35歳で引退して、5年間準備して40歳で会社を作る」って考えていたんです。それと、当時ブロッコリー会長だった木谷高明さんにも「佐藤さんは自分が歌うだけじゃなく、企画を考えてそれを動かす側に回った方がいいよ」と、ずーっとアドバイスされていました。そして改名するきっかけになった占い師さんの「誰かをプロデュースする仕事をすれば成功する」という言葉。

たくさん悩んで、考えて、苦しんで──そして出した私の結論。「たくさんお仕事があるのに辛いなんて贅沢だ」って今でも思います。でも、それを辛いと感じて悩んだ1年があったから、今の私がある。たくさんの仲間たちがいて、10年後を一緒に考えてくれる齊藤プロデューサーというビジネス・パートナーとも出会えた。本当に辛い2006年だったけれど、私にとっては大事な1年だったと思います。


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たくさん悩んで、考えて、苦しんで──そして出した私の結論。「たくさんお仕事があるのに辛いなんて贅沢だ」って今でも思います。でも、それを辛いと感じて悩んだ1年があったから、今の私がある。たくさんの仲間たちがいて、10年後を一緒に考えてくれる齊藤プロデューサーというビジネス・パートナーとも出会えた。本当に辛い2006年だったけれど、私にとっては大事な1年だったと思います。