佐藤ひろ美 半生記 第7回:アーティストとしての青春時代

 デビュー後に体を壊した佐藤ひろ美。しかし療養中の意識変革と、周囲の人たちのサポートもあり、復帰早々に精力的に仕事をこなすようになる。折しも美少女ゲーム業界がゲーム主題歌に注目を向け始めた時期。歌だけでなく、ユーザーの前に出てイベントなどもこなせる佐藤のもとに、たくさんのオファーが届き始める。周囲が一気に動き始める中、佐藤はフリーと言う存在に限界を感じ始めた。
「スケジュール管理などの事務的な部分を、私一人では処理しきれなくなってきた時に、事務所に入らないかというお誘いがありました。具体的な候補はふたつ。その中で選んだのが、河辺健宏さんのリバーサイドミュージックでした」
 リバーサイドミュージックを選んだ理由の中で大きかったのは、当時の佐藤ひろ美の楽曲の約半分を制作していたということである。代表の河辺健宏は『みずいろ』、そして当時頭角を現し始めていた上松範康は佐藤のデビュー作『シールド』の作曲者だった。また、その他の作曲者もリバーサイドミュージックと繋がりがある人が多かったという。
「リバーサイドミュージックにはレコーディング・スタジオもあって、ほとんどの曲をそこで収録していたんです。それでお馴染みだったというのもありますね」
 その頃のリバーサイドミュージックの印象は?と尋ねると、佐藤は「アットホームな事務所」と答えた。
「初めてリバーサイドミュージックを訪れたのは、お仕事とは別で、知人の紹介でした。「焼肉パーティーをやるから」と誘われて言ってみると、一軒家のお庭でバーベキューをしているんです。途中からギターとピアニカの演奏も始まるし(笑)。本当に楽しい人たちだなあと思いました」

 こうしてリバーサイドミュージックに所属を決めた佐藤ひろ美。ではもう一つの候補とは?
「そっちは芸能事務所で、私をバラエティーのタレントとして売り出そうと考えてくれていました。自分の性格にはあっているかな?と思ったんですが、歌はダメだったんです。売れたらCDを出すことは考えられるけど、美少女ゲームはNGと言われて……」
 美少女ゲームを歌い続ける中で尊敬できる人たちと出会い、美少女ゲーム業界の素晴らしさが見えてきた佐藤は、もっとゲームソングを歌いたいと思っていた。
 多くの楽曲と出会い、音楽人としても大きく成長できたリバーサイドミュージック時代。
「今思えば「無茶だろ」ってくらいお仕事をしていましたけど、一所懸命だったのは間違いないです。今まで知らないこと、見たことのないことを経験できました。様々なことを客観的に見られるようになったし、その後の音楽活動の礎も、この頃に作られました」
 そして何より、今も一緒に音楽を作りつづけている仲間たちと出会った時期でもある。
「上松さん、淳平くん、藤間くん、そして菊田大介くんという、Elements Gardenのみんなと出会い、その他にもたくさんのミュージシャンや、ゲーム・アニメなどの関係者にもお会いできた時代です。あの頃、私の悩みを聴いてくれた人たちには本当に感謝しています」
 そんなリバーサイドミュージックで過ごした時間を一言でいうと?という質問に、佐藤は「青春時代」と応えてくれた。
「仕事も遊びも一所懸命で無茶ばかり。勉強もいっぱいしたし、楽しいことも辛いこともあって、その後に繋がる仲間たちと出会えて……まるで学校みたいですね。だからあの時代は、シンガーとして、そしてアーティストとしての私の青春時代だったと思うんです」