年代別コラム 第3回:2002年編
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手元に資料があるんですけれど、2002年ってこんなにたくさん唄っているんですね。ちょっとビックリ(笑)。特に9月に4タイトル、12月に3タイトルも唄っているんだ。2000年にデビューして、様々な歌を唄わせてもらって、それを聴いていただいた多くのメーカーさんから、お仕事をいただけるようになったんですよね。お声かけいただいたら、全部お受けしてきました。
だから体はきつかったですし、実際に何度も体調を崩していました。でも、気持ちが元気なんですよ。だから「辛いな」って思うことはなかった。とにかく楽しい想い出しかない1年でした。
そんな1年でしたが、一番大きなトピックはリバーサイド・ミュージックという音楽事務所に所属したことです。デビューから曲を作ってくれる事が多かった河辺健宏さんがマネージメントをしてくれることになったんです。でも河辺さんもマネージメントは初めて。お互い手探りで活動を始めました。
当時のリバーサイド・ミュージックには、河辺さんの下に上松範康さん、藤田淳平くん、藤間仁くんがいて、今でこそ3人とも立派な作家さんですけど、その当時はまだ駆け出し。私も経験不足だから、一緒に成長していきました。
とはいっても3人は音楽をきっちり勉強しているし、センスも情熱もある。だから色々と教えてもらうこともいっぱいありました。だから楽しみながら音楽を作っていた。『にゃんにゃこにゃん』という歌があるんですが作曲が上松くんで編曲が藤間くん。私と3人でスタジオに入って、あーでもないこーでもないって考えながら楽曲を作っていったりしたんです、
そういう風に音楽活動ができたのも、リバーサイド・ミュージックがアットホームな事務所だったから。河辺さんがお父さんで、家族のような雰囲気でした。事務所が一軒家だったからかな。お昼前に出社すると河辺さんが作ったご飯をみんなで食べて、仕事がひと段落するとみんなで晩ご飯を食べて(笑)。仕事だけでなくみんなで遊んだりしていましたから。
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2002年の私の活動を見ると、本当にたくさんのことがありました。『みずいろ』のキャラクターアルバムでは早坂日和ちゃんと神津麻美ちゃんのキャラソンを作詞させてもらいました。これがゲーム業界のお仕事での初めての作詞。担当の声優さんとは仲良しだったので、頑張って作詞しました。
『みずいろ』では色々な経験をさせてもらいました。OVAでは主題歌とエンディング曲の作詞もしましたが、キャラソン以外の作詞はこれが初めて。それまではスタジオ・ミュージシャンのような気持ちだったんですが、だんだんアーティストとしての自覚が出てきた頃です。
これはやっぱり事務所に所属したのが大きかった。河辺さんから「いただいたゲームの歌をやみくもに唄うだけではなく、アーティストとしても活動できるようにしていこう」と言われたんです。それで私も自分のアーティスト性を意識するようになりました。
オリジナルのマキシシングル『born』をリリースしたのも、アーティストとしての自分を表現するため。このマキシシングルに収録されている『born』や『オレンジ』は、今でも大好きな歌なんです。
それにしても、この年はずいぶんたくさんのCDを出しているんですね。メーカーさんが出されたCDはほとんど持っていないんだけど(笑)、それだけ頑張ったんだなあって思います。
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ライヴやイベントも多くなった年ですね。キュアメイドカフェのバレンタインライブや大阪ドリパのステージでは、コスパの松永会長にお世話になりました。
バレンタインライブは前の年のクリスマスライブと同じで喫茶店。正直言って音楽を演奏するには厳しいんですけれど、それでもたくさんのお客さんが集まって応援してくれて。本当に感動しました。
キャラフェスのステージは、あんな大きな会場で唄うのが始めてだったので、ずーっと緊張して震えていました。あの時は初めてひとりで大阪まで移動したんです。新大阪駅でどうしたらいいのか分からなくなって、先に大阪入りしている知り合いの編集者さんに電話して迎えに来てもらったり……いい想い出です(笑)。
ライヴと言えば、GROOVERさんの『暴れ祭』も2002年なんですよね。プロデューサーのbambooさんと「ライヴをやりたいんだよ」とずっとお話ししていて、「ああ、この業界でも音楽をこんな風に考えている人がいるんだな」と思ったら嬉しくて「協力するよ!」って言ってたんですよ(笑)。
私もゲーム音楽を3年やってきて、昔出演していたようなライブハウスに戻ってこれたことが感慨深いライヴでした。お客さんも満員で、盛り上がりも半端じゃなくて。嬉しくて楽しい一方で、あのままサティアグラハで活動できていたら、メンバー全員でこのライヴを経験できたのかなあ……と。その頃にはもう連絡も取れないメンバーもいたりしたんですけど、やっぱり心のどこかにサティアグラハのことはあったんですね。
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リバーサイド・ミュージックに所属してアーティストとしても頑張っていこうということになって、この年はソロライヴも2回ありました。まずは10月に高田馬場のCLUB PHASEでの『佐藤裕美LOVE LIVE 2002』。この時は緊張と疲労から体調を崩していたんですけれど、とにかく楽しいライヴでした。終わった時は、本当にホッとしたのを覚えています。でも、こうしてセットリストを見ると、2回まわしはちょっとやりすぎですよね(笑)。今では歌わないような懐かしい曲も唄っているんだ。
2002年は、ものすごく忙しい1年で、いまこうして振り返ると、2年分や3年分の活動をしていたようにも思えます。本当に忙しかったんだけれど、いろんな想い出が凝縮しているんですよね。ものすごく忙しくて、ものすごく楽しい1年でした。ライヴやイベントも多かったから、この年に初めて私のことを知ったというファンの方も多いのではないでしょうか。私も「ファン」を強く意識するようになった2002年でした。
思えばデビュー後に大きな病気をして、その時に「これからは悔いの残るような生き方をしたくない。音楽だけを懸命にやっていく」と決めて、それからがむしゃらに頑張ってきました。2002年が楽しい1年だったのは、そんな私に神様がくれたご褒美だったんだと思う。
それまでは、ともすれば世の中を斜めに見ちゃうようなところもあった私だけれど、歌うことで生きていけるようになって、たくさんの仲間やファンの方と出会えた。色んなことを素直に受け止められるようになったんです。私にとって2002年は、大きなターニング・ポイントの一つだったと思います。
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